2009.12.21 16:25:06

      野蛮娘日記①「そんな法律、いつできたんじゃっ!知ってたら家出なんかしませんよ」

     私、柘植聡美といいます。聡美ってなかなかいい名前でしょ。でも冷静に考えてみりゃ――名前負けもいいとこです。聡美の「美」はまぁよし。美しさの基準は人それぞれ――かわいいねってほめられることだってあるし自信がないわけじゃないっす。問題は聡明の「聡」の字。頭がいい子かどうかって話です。柘植家ってのは医者、それも大病院の院長の家系だったりで、跡取りとしての期待もあって聡き娘に育って欲しかったのだろうけれど、残念ながら私はそこまで頭がよくない。人生いろいろって言うでしょ? いろいろあって私……世間でいうおバカ娘です。いろいろって何だよ、と突っ込まれそうなので早めに打ち明けておきますが、中学一年生の冬、私は交通事故に会いました(暗い話でごめん)。両親はその事故で死んじゃった。そして私は――生き残ったものの打ち所が悪く、記憶の大半を失いました。十三歳としてはかなりイケてた(らしい)知能が五年分ぐらい退行して小学校二年生に。いろいろってのはそういうことなんで、よろしく。

     中三の時点で連立方程式が解けないおバカの聡美でしたが、ズルして高校には入学させていただきました。柘植家を牛耳る祖母が寄付金という武器を振りかざし、オトナノロンリーを使いこなすので……(最近ようやく、そういうややこしいことも理解できるようになった)。この一件から聡美は祖母をうらむようになりました。だってそうでしょう。表向きは事故で記憶を失ったかわいそうな娘として情けをかけられ、影では裏口入学した遺産相続バカ女と蔑まれておったのですよ。他人の態度にゃ表と裏があることを知って以来、同級生の前で私はひたすらヘラヘラしておりました。そして心の中ではギラギラしておりました。カバンに中学生の参考書を忍ばせている恥ずかしさに耐えながら、世間をいつか見返してやろうと強く誓い、自分のアホさと日夜バリバリ格闘し続けたのですよ。自分で言うのもなんですが、よくぞグレずに真面目でいい子に育ったもんだ。その甲斐あって高校三年生の冬、やっと知能が現実に追いついたんです。エラいと思わない!? だって五年の遅れを五年で吸収したってことは……五年で十年分勉強したってことじゃん。人の倍は努力してるよね。あってる? あってるあってる、うんうん。まぁ追いついたといっても並の高校生レベルっちゃあそれまでの話で。大学なんてとてもとても……とおもいきや。ここでまた柘植家のダークな力に後押しされて某私立医大へ進学しちゃいます。ありえねぇ。全教科赤点ギリギリな私が成績優秀で推薦合格なんて誰が信じるというのですか。東京へ行って女子大生になる切符を手に私はひたすら悩みました。心の声はNOを主張します。あんたなぁ。高校卒業がどれほど大変やったか、もう忘れたんか。しかも医者になりたいなんて一度も思ったことないやんか。ついていけへん世界に放り込まれる辛さは充分わかってるやろ? ええ加減に学習せなあかんで。それに対し柘植のおばあちゃんはこう反論するのです。じゃあ聡美さん大学行かずに働くの? どこに就職なさるの? 遺産はたっぷり相続するけど肝心の病院はつぶれても知らないふりですか? 

     柘植の病院は私の代で――終わりなのね。

     両親が死んで悲しいのは娘の私だけじゃないことぐらいわかります。父はとても優秀な医師だったといいますから、残った孫に対する祖母の溺愛ぶりを理解できないわけじゃない。東京で医者を目指す。実力としてはありえねー選択でも柘植の跡取りなら当然の選択だと自らに言い聞かせ、しぶしぶ新幹線に乗った柘植聡美ですが、やっぱり大学で無惨に打ちのめされ、あっという間にボクシングでいうところのサンドバッグ状態となります。カリキュラムに目がくるくる回って成績は雪だるま式にずるずる悪化、居心地悪いキャンパスからどんどん足が遠のいてネットカフェにだらだら入り浸るようになり――気がつけば、二〇〇九年十二月二十一日。

     私が大学をバリバリにサボっている事実に気づいた祖母の激怒から物語は始まります。



    「聡美さん。こちらへおいでなさい」

     いつも冷静な祖母が玄関でこそこそしていた私に気づき、珍しく大きな声を出しました。ほぼ絶叫といっていいでしょう。これは大事になるぞ、と柘植家の家政婦連中がどよめいております。ちなみにこの大邸宅には執事もいますからね。

     祖母と孫の一大決戦は大勢のギャラリーに囲まれて始まりました。

    ……なんですか、おばあさま」

     しおらしく正座する私を前に、祖母は畳にクレジットカードの請求書を叩き付けました。

    「あなたの買い物の中身をすべて調べさせました。行動記録もです。使用人たちとくだらない口裏あわせを画策していたことも聞き出しましたから、もう隠し事はできませんよ」

    ……はい」

     ギャラリーの顔色を観察したところ、若いメイドの一人が顔をうつむけておりました。こっぴどく絞られた様子。裏切られたことは残念でなりませぬが、まぁ、どうせいずれ全部バレるだろうと思ってました。

    ……あの子は悪くありません。全部私がお願いしたことですから」

    「いいですか聡美さん。門限破りとかそういうことを問題視しているわけではないのです」

    ……なんや。門限は別にええのんか」

    「関西弁はおやめなさい。関西弁で書いていい医学論文はありません」

    ……

    「両親のいないあなたにとって私は父親であり母親です。六年もの間、学校の先生方からあなたの自滅的な行動で散々お叱りをうけてきたのは、他の誰でもないこの私です」

    ……はい」

    「あなた、家の鍵をオカワリしましたね」

     そうです。私は家の鍵をなくしたのでメイドの一人に頼みこんで鍵を複製させてもらいました。

    ……だめでしたか」

    「井畑三郎先生を覚えていますか。彼があなたをどう評し、祖母の私に何を戒めたか」

     井畑。よく覚えている。中学校の数学の先生だ。優しい先生だった。デキの悪い私にあらかじめ出題箇所を教えてくれた。計算問題。私は問題と答えを単語帳にしたため、丸暗記でテストに挑戦した。完璧だった。テスト時間は四十五分。冒頭五分で計算問題の欄を全部埋めつくした。それがまずかった。何もすることがなくて私は猛烈な睡魔に襲われ机につっぷして眠ってしまったのだ。寝た。たっぷり寝た。終了五分前の声がかかるまで寝たわけだから、ええと、四十五ひくところの五で四十分寝た。あれ? 違うな。三十五分寝た。うん。で、目が覚めた私は自分のよだれで紙がべちゃべちゃになりせっかく書き込んだ計算問題の答えがふやけて読めなくなっている事実に気づいた。消しゴムをかけることもできなかった。仕方ないので挙手して「先生、答案用紙のオカワリください」とお願いした。それが最初の答案オカワリ事件だ。

    ――柘植。覚えとけ。テストは給食の時間じゃない。

     井畑先生はそうおっしゃいました。

    ……よく覚えてます」

    「鍵をなくすことは誰だってあるでしょう。でもあなたの場合、オカワリが多い。多すぎる。人生のやり直しが癖になっている。緊張感がない。貴方の二番目の欠点です」

    ……欠点っていうか、バカだからだと思いますが」

    「違います。知恵の遅れと、緊張感は別。そうやって何もかも交通事故のせいにする、それがあなたの一番の欠点」

    ……はい」

    「あなたに緊張感が欠けている理由はわかっています。甘えよ。あなたが何かやらかすたびに、手を差し伸べてくれるやさしい誰かがいると思っている。だけどそれは大きな間違いだわ。あなたはただ、他人の仕事を増やしているだけ。迷惑なの。佐々木一彦先生がなんと言うかしら」

     佐々木。私を敵視していたから彼の事はよく覚えている。高校の歴史の先生だ。彼の作るテストはやたら選択問題が多い。記述式の答案にくらべて採点が楽だから、つまりズボラをしているのだというもっぱらの噂。ところが私ときたらエンピツ転がしを極めていて、かなりの確率で選択問題を当てまくっていた。他の教科はからっきしダメなのに歴史だけ高得点な柘植聡美の七不思議にスポットライトが当たるにつれ、佐々木は他の科目の先生たちの目を気にし始めた。気がつけば彼が出題する選択問題は七択にまで増やされていた。エンピツの断面が六角形だから七択なら私の転がしを封じることができるとにらんだに違いない。ところが私はテストの最中にカッターナイフを取り出し、エンピツに七つ目の断面を作ろうと必死になった。結果は無惨。力をこめたはずみで手を滑らせ、私は手に重傷を負った。答案用紙は血まみれ。クラスは騒然となった。保健室で手当を受ける私に、やはり答案用紙のオカワリが届く。これが二つ目の答案オカワリ事件、別名佐々木の七択リスカ事件だ。

    ――柘植。お前、何か俺に恨みでもあんのか。

    ……頼むから仕事を増やさんといてくれ、ってあいつやったら言うやろね」

    「関西弁はおやめなさい」

    ……おばあさまが、佐々木先生なんと言うかしら〜ってネタふりするからやで。関西人を再現するには関西弁しかないよ」

    「叱られているという自覚が足りない。ふざけるなら貴方をかばった使用人を処罰するわよ」

    ……酷い」

    「酷い? 違うでしょう。貴方が悪いの。自覚なさい」

    ……


    「それと。学校へもほとんど行っていないそうね。授業へ出ているふりをして、本当はクラスメートに代返させて謝礼を渡していると聞いたわ。このお金の使い方。絶対バレないとでも思ったの」

    ……さすがお目が高い」

    「高田洋之先生を覚えていますか。貴方のそういうところが彼の怒りを買ったのよ」

     高田は嫌いじゃない。高校の学年主任で進路相談の担当。つい最近の付き合いなのでよく覚えている。全国共通実力テストを受けたときのこと。佐々木の七択リスカ事件以来、エンピツ転がしという秘技を封じられ丸いシャープペンシル以外持ち込みを禁止された聡美選手はマークシート方式答案用紙に手も足もでなかった。どうせ考えてもわからない。卒業にも影響しない。ということはヒマだ。ヒマなのだ。ヒマだからこそ、私のイタズラ心に火がついた。普段からネットで2ちゃんねるを放浪するのが趣味でお絵描きが大好きな私は、マークシートの塗りつぶしで顔文字を描くことができることを発見。アスキーアートというやつ。英語数学理科国語社会、五科目すべてで楽しく点描にいそしんだ。

    )とか

     (´Д) とか

    キタ()! とか

     なかなか見応えある仕上がりだったと思う。絶対バレないだろうと思っていたけれど、仕上がりの美しさが際立っていたのだろうか、一ヶ月後には進路相談室に祖母ともども呼び出された。

    「あの件で高田先生は奈良市教育委員会に呼び出され、奈良市教育委員長も奈良県教育委員会に呼び出され、奈良県教育委員長は全国都道府県教育委員会連合で苦言を呈されたといっていたわ。貴方のした事がどれだけの人を巻き込むか。バレたときの影響力を考えないのはバカのすることです」

    ……やっぱりバカのせい」

    「駄目。違う。間違えました。思慮が浅いのよ。思慮が浅いのとバカは似て非なるものがある」

    ……一緒やとおもうわ」

    「あのときの高田先生。とても思慮深い方でした。頭ごなしに叱ったりせず、祖母の私の苦労までねぎらう余裕があった。でもね。彼の顔は赤く紅潮していましたよ。爆発寸前の表情でした。それを理性で抑え込んでいたように見えたわ。彼の怒りの矛先はあなたの、その、バレなければいいやという安直な考えに向けられていたの。思慮深い方だけに許し難いと思ったのでしょうね」

     そうでしょうか。あのとき高田は怒っていたけれど、最後には笑ってこう言いました。

    ――柘植は絵の才能を活かした方がいいかもしれないよな。

    ……絵のこと、ちょっとほめてくれたような気もしたよ?」

     実はあの後、高田は私に余ったマークシート用紙をたくさんくれました。

     罰として他にも顔文字を描いてみせろというのです。私は縦に八枚つないで


    ( ゚д)


    (д)ゴシゴシ


    (;゚д)


    (д)ゴシゴシ

      _, ._

    (;゚ Д゚)!


    (д)ゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシゴシ


    (  д )


    (; Д ) !!


    を描いて提出しました。私から頼んだわけじゃないけど、これが三つ目の答案オカワリ事件。

    「あなたはそうやって、他人の情にすぐ甘えてしまうのね。どうしてそんな風に育ってしまったのかしら」

    ……他人の情って、なんか冷たい言い方だね」

    「あなたは他人様からの恩を暖かくうけとめすぎね。恩を受けるということは貸しを作るということにつながる。負の遺産を積み重ねる事実から目をそらすべきではないわ」

    ……そうかな」

     高田先生は恩を売ったりしないと思う。私の絵を見て笑ってたもん。このあたりから私は祖母の小言に納得できず、反発し始めていました。

    「もちろん貴方だけを責めるつもりはない。私にも非があるわね。十三歳で両親をなくしたこと、アタマを強く打って大量に記憶を失ったこと。それをかわいそうだと思うあまり、正しく叱ることを怠ってしまったわ。今まさに、その責め苦を受けているのだと考えています」

     それも違う。違うと思う。

    ……おばあさまは悪くないよ」

    「八戸瞳先生を覚えていますか。彼女が貴方をどう扱い、私に何を戒めたか?」

     大好きな八戸先生を忘れるはずがない。高校の生物の先生だ。彼女は私に甘かった。テストの時にはあらかじめ電卓の持ち込みを許可してくれた。ところが聡美はテストの前日、体育の授業でバレーボールに大ハッスルし、あろうことか左右両手の人差し指・中指・薬指あわせて計六本の指を一気に”突き指”した。翌日電卓どころかシャープペンシルすら握れない私の隣に八戸先生はずっと付きっきりになり、私のかわりに電卓を弾き、私のかわりに答案を書き込んだ。これは後に究極のオカワリ事件と呼ばれたが、なんというか、正確にはミガワリ事件と呼ぶのが正しいように思う。彼女は高校のなかで私の唯一の支えだった。高校三年生の最後のテストで全教科赤点をクリアしたとき、教師のなかで彼女だけが私に握手を求めてきた。

    ――柘植さん、あなたは本当はバカじゃない。ちょっぴりドジなだけよ。

    ……八戸先生は私に優しかった」

    「そう。だからこそ、彼女の存在が私に戒めとなったわ。あなたを甘やかせばあなたは駄目になる。彼女はまさに額面通りの反面教師……よく言えばね。悪く言えばあの人は教師失格よ」

     おばあさま、それは言い過ぎだよ。

    ……悪いのは私で八戸先生じゃないよ。だから悪口は言わないで」

    「悪口? これは評価というものよ。人は人を評価しながら生きていく。必要最低限の作業」

    「じゃあ聞くけど、おばあさまは私をどう評価しているの。バカ。それともバカじゃない。どっちなの」

    ……

    「私ずっと聞きたかったの。おばあさまは私をバカだと思っている。そうに決まってる。でもその現実から目を背けて、あえて私に重たい荷物を背負わせて、すっごく遠い道のりを歩かせようとしてる。それって正しいことなの? 本当の教育なの? 私がどれだけ頑張ったところで結果なんて出やしないとは思わないの? かわいそうだなって……この娘はバカだからしょうがないなぁって、思わないの?」

     聡美はおばあさまをじっと見ます。涙を我慢します。ここで泣いたら負けです。

     おばあさまも聡美をじっと見ています。涙は我慢できなかったみたい。頬が濡れていました。唇も震えていました。

    「私に……貴方をあきらめろと言うのね」

     かわいそうなおばあさま。でも聡美は攻撃の手をゆるめません。

    「あのな。おばあさまは夢を見てる。わたしは現実を生きてる。はっきり言うけど私、お父さんの代わりになんてなれへん。ただの、いまどきのおバカ娘やで。全教科赤点クリアしたとはいえ柘植家にふさわしくないバリバリの落ちこぼれや。医学部なんて無理に決まってるやん。ごまかして入ってもついていけるわけないやん。でも勘違いせんといて。私おばあさまのこと嫌ってるわけやないよ。いままで大きくしてくれてありがとう。感謝もしてる。でも今の生活を続けるのは無理。どう考えても、大学卒業して病院を継いだりできるわけない。目を覚ましてんか、おばあさま。もう限界はとっくに超えてるんやから」

    ……ひっ……ひいっ」

     おばあさまが口を横一文字にくいしばったまま、声をあげて泣いていました。柘植家の偉大なる家長が大勢の使用人の前で泣く事なんて前代未聞の出来事です。

     ギャラリーの中からも嗚咽が聞こえ始めてきました。

     やっぱり私も涙が我慢できなくなりました。「……ごめん」

     おばあさまの顔はもうぐしゃぐしゃでした。「やっと……謝ってくれたのね。聡美さん」

    ……ごめん」

    「いつ……限界を超えていたのかしら」

     たぶんそれは、高校生活最後の冬。一年ほど前のことだ。

     私が全教科赤点をクリアした記念にホームパーティを開こうと提案した母方の申し出を、おばあさまはきっぱり断った。五年間で十年分努力した、とほめてほしい私におばあさまはとても冷たかった。理由はよくわかる。赤点クリアした程度でゴールだと思わせたくなかったのだろうし、甘やかしてはいけないという親としての自覚が彼女を頑固にした。彼女はせっせとレールを引く鉄道員。私はその上をよたよた走り続ける汽車。でも彼女は小さな駅で停車する事を許さない。鈍行列車を許さない。時刻表を守れという。特急列車になれという。

     ごめんなさい。たった今、オンボロ汽車聡美号は悲鳴をあげて脱線しました。

     さようなら柘植家。私――家出します。

     大邸宅に背を向けて私は猛烈に走り始めた。

     母の形見のカバン。モノトーンのバーキン。荷物はこれだけ。

     黒塗りベンツの後部座席にさよなら。

     裏口OKのヘッポコ医大にさよなら。

     これまでの自分すべてにさよならを告げて、私は走ります(っつっても息があがっちゃって、すぐに走るのはやめちゃうんだけど)……。そして考えます。

     行きたいところってどこだろう。会いたい人って誰だろう。

     そして思い出します。



     高校生の頃――中学生向け数学ドリルを隠し持つおバカで努力家でシャイな私を、かわいがってくれた人たちがいました。カテキョーの大学生、霧島颯太アニキとその弟で同級生の純也クン。二人のよきオトコたち。想い出の舞台はいつも夕暮れ。彼らの出身校で(聡美が逆立ちしても入れない……っていうか逆立ちしたら余計入れないじゃんか)地元最強の進学校、都の原高校のE棟、十六時四十五分。剣道部のOBでコーチの颯太は毎日後輩にシゴキをくれてます。私は私立おバカ高校の授業が終わると場違いな公立カシコ高校に足を運び、シゴキが終わるまで颯太アニキを待ちます。E棟の三階、インターネット部が私の待機場所。そこには弟の純也クンがいて、颯太アニキが来るまでの間、私のドリルの相手をしてくれます(ちなみに霧島純也といえば知らない女子はいないほどの人気ぶりだったわけで。秀才で見た目よし。毎日優しく手ほどきされていたわけっすから「交通事故で頭が悪くなったかわいそうな娘」という免罪符がなきゃ絶対いじめられてましたよアタシゃ)。

     部室は雑然としたケーブルとコンピュータのスパゲッティ状態。

     私はまず最初に机の上のマウスとか本とかをどけてスペースを作り、それから自分の恥ずかしい中学生向け数学ドリルをそっと広げて、静かに問題をこなします。

     隣で純也君はいつも難しいプログラミング言語の本を広げ、コンピューターと一体になっておりました。

     静かな夕暮れ。

     隣り合う二人は、まるで本の虫のよう。

    「純クン、ここわからへん」

    「早い。もうちょっと考えたら」

     そう言われると私はいつも、ドリルの端っこに落書きを始めます。頭は悪いけど絵を描くのは得意なの。要は……助けを求めているのです。そんな私の様子にあきれた純也クンは、自分の本をパタリと閉じてこう言います。

    「俺かてこの本、わからへんし難しいよ。でも解ろうとしたら、解ることもある。わからへんっていうたら、難しくないことまでわからなくなる。そういうもんや」

    「純クン賢いもん。私アホやもん。いじわるや」

     純クンは時計をちらっと見ます。「あと五分考えてみよう」

    「この問題、制限時間三分って書いてあるけど」と私。

    「そういう文句だけ達者なんやから」

     そうこうしていると、颯太アニキが入ってくるわけです。「やってるか、聡美ちゃん」

    「先生、さっぱりわからん」

    「何がわからん」

    「この問題。もう制限時間超えてるし」

     颯太アニキは私の走り書きをみて、すこしニヤリとします。「純、教えてやれよ。惜しいとこまで来てる感じやん」

    「そうやねん。せやのに聡美ちゃん、ギブアップ早いから」

    「そうか。早いか」

     そこで颯太アニキは一計を案じます。「よし。休憩にしよう。おやつタイム」

     純也クンは笑います。「ええっ? 休憩かいな」

    「純、おまえ売店行ってこい。俺がコーヒー入れるから」

     弟は部室の外へ。アニキは給湯室へ。私は一人で部室に残ります。

     そうです。

     わかっているのです。

     私の役目。

     私がここでやるべきことは。

     聡美選手はもう一度、視線を数学ドリルに戻します。

     二人がおやつの準備を始めて……食べるまでに二分から三分。

     弟が戻ってきました。兄貴も戻ってきました。

     スナック菓子の袋とコーヒーの水面が夕日に照らされてキラキラ。

     そして私が声を出します。「あ」

    「どうした」と颯太アニキ。

    「なになに」と純也クン。

    「わかったかも。ひらめいたかも」と私。満面の笑顔。

     私が五年間で十年分勉強できたのも、二人のおかげ。

     そうそう、私ってば家を飛び出して走ってたんだっけ。思い浮かぶのは在りし日の放課後、都の原高校E棟三階で見る夕暮れ――でもあの日には戻れないんだ。二人にはもう会えないんだ。「もう会っちゃダメ」にしてしまったんだ。ぜーんぶ私のせい。わかります? わかりますよねぇ。みなさまお察しのとおり私は、女としてあるまじきアバウトな態度をとってしまったわけです。生意気な女でありますよ。おバカのくせにね。おバカってかわいいと思われちゃうんだろうか。彼らが頭が良すぎたせいもあるか。とにかく、私は弟からもアニキからも告白されるという本来なら前代未聞のウハウハな境地に追い込まれておきながら、優柔不断な態度をとった挙句、修復不能な関係にこじれ高校を卒業。そのまま大学へと進学。祖母の里である東京へ上京してしまったわけです。

     雨が降ってきた。お財布は持ってる。雨宿りするなら西新宿に新しくできたちょっぴりお洒落なネットカフェにしよう。ネットにアクセスしたら、少しだけアノ頃の気分が味わえる。お目当ては霧島兄弟のブログ。二度と会えない関係でもブログを読むぐらい許されるよね。

     あの頃のことが書かれている日記のバックナンバー、読めるといいな。

     お察しのとおり未練たらたらなのね私……そういうところが、おバカだっての。

    「いらっしゃいませ」

     ネットカフェの店員が私をにらみつける。何よ、お金だったら持ってるわよ?

     「ええと……普通の席をお願い……します」

    「お客様」

    「?」

    「免許証の提示をお願いします」

     う?

     何を言ってるのか、このデブ兄ちゃんは。「め……免許証って?」

     デブ兄ちゃんは”知らないのかよお前”的なふてぶてしい笑顔で壁の張り紙を指差している。

    「……お客様、本日からインターネット接続法が施行されましたので、当店のご利用に際しましてはカウンターにて免許証の提示が必要になります。お持ちでないようでしたら、警察か教習所で仮免許の申請をしていただくと、審査の上即日五種免許が交付されることになってます。当店はライセンスの中身に応じて、座席の提供とマシンの貸し出しを行います」

     私の頭は真っ白になった。「い……インターネット接続法? って何ですか」

     デブ兄ちゃんはチラシを一枚くれた。「詳しくはこちらをどうぞ」

     食い入るように読んでみる。インターネット接続法本日施行のお知らせ。平成二十一年十二月二十一日。本日より罰則規定を含むインターネット接続法が施行されました。法施行に伴い、ネットの利用にはアクセス免許の携帯が義務づけられます。ネットアクセス免許の取得方法についてはお住まいの市町村に新設された電網免許センターへお問い合わせください。云々、かんぬん。

     ネットアクセス免許!?「こ……こんなの聞いたことないです」

    「……テレビ見ない人ですね。ニュースでがんがん呼びかけてますよ」

     そうだ。私ってばここ最近、ニコ動ばっかり見ていたのだ。しかも大学はろくに通っていないから友達もいない。1人で勝手に鎖国していた。

    「……見れないんだ」と私は八つ当たりをかました。

    「はい?」

    「じゃあ、キリシマ兄弟のブログは見れないんだ」

     私の逆ギレ的態度にデブ兄ちゃんは態度を改め、少しやさしくなった(気がした)。

    「……まぁ、今日の時点では、免許証を持っていない方もたくさんいるようですから、あまり落ち込まれる必要はないですよ。とりあえず警察か試験場へ行かれたらどうです?」



     デブ兄ちゃんがくれたチラシのウラ――都内の主だった教習所、試験場の地図になっている――をにらみつつ、私は歩き始めた。小降りではあるけど雨はまだ止んでいない。ここからほど近くに新宿の教習所があって、私の足で五分もかからないと思う。だけどこのまま歩けばパーフェクトな濡れねずみに違いなかった。こういうとき「ぬれますよ」なんて傘を差し出してくれる男の子がいたりして、都合よく恋が始まったりしないのかな……。それにしても最近はおばあちゃんとも話をしてなかったし、三流大学生(以下)の生活だから世の中の動向に興味なんてゼロだったし……だからこんなことになっている気配すら感じなかった。インターネットへのアクセスが政府の管理下におかれ、規制が始まっていたなんて。

     五分ぐらい歩くのかな、と思いきや徒歩は二、三分で終了した。教習所らしき建物から長蛇の列が続いていて、その最後尾に私は並んでしまったからだ。でもこのまま何十分もこうしていたら風邪を引いてしまう。ギブアップを検討していたら、向こうの方から歩いてきた黄色い雨がっぱの人物。列の人数を数えながら、私の隣で立ち止まった。

    「……これ、どうぞ」とかっぱオトコは言った。フードの奥の表情はよく見えない。

    「?」

     私はカレが差し出している何かを、反射的に受け取った。それはいい加減な再生紙に番号が印刷されただけの、いわゆる「整理券」だった。番号はゼロゼロイチ。

     「……貴方から後ろの人には、今日中に五種免許の交付ができません」

     と、黄色カッパはむごい一言。

    「ええっ。うそ。私から!?」

    「……明日以降、その整理券を持っている人だけの列を作る予定なので、また来て、並んでもらえますか」

     私はちょっとゴネたくなった。

    「私……ネカフェを追い出されたんですよ」

    「?」

    「新しい法律のせいで、ネカフェに泊まれなくなったんです。帰るところがないの。どうしても欲しいんです、免許が」

     家出した、とは言わなかったです。さすがに。

    「……」

     黄色カッパのヒトは反応がない。何も言い返してこない。

     その表情はフードに隠れていて、よくわからない。

     その様子に腹がたった私は、ついつい勢いで悪態をついてしまった。

    「かわいそうとか思いません? 雨の中みんな並んでるんですよ。傘も持ってないんだから。でも傘を買うために列を抜けたら、もっと後ろに並び直さなきゃいけないじゃないですか。だから我慢して……」

     そこまで私が言い放った途端――黄色いオトコは雨ガッパの上着を脱ぎ始めた。そのときの様子を鮮明に覚えている。彼の動作はしなやかで、それでいて機敏で、何かのスポーツで鍛えられているに違いない正確さと繊細さ、躍動感にあふれていた(正直みとれていた)。あっという間(ほんの二、三秒)にカレは自分が着ていた黄色い上半分を濡れねずみの十九歳女子の頭上にかざし、バサ、と問答無用で勢いよくかぶせてきた。そうされて初めてわかったことがあった。黄色い雨ガッパの上着、それは思ったより上等の(ホームセンターとかで売ってる数千円のものじゃなく、がっちりした軍隊の支給品のような)素材でできていて、しかも体格の差があるせいか私にとってはかなりおおぶりで余裕があり、確実に風もよけられて、少しカレの体温も残っていて……私にとっては最高の傘だった。

    「雨の中、並ばせてわるかった」と声がする。

     かぶせられたでかい雨カッパのフードに視線を遮られ、彼の顔がよく見えない。フードをめくってやっと視界を確保したころには、下半身だけ黄色いカッパ男はもう列の先頭へ向かって走り始めていて(機敏)、その後姿しか見ることはできなかった。

     ああ……カレは教習所に戻って、別の人の黄色カッパを借りてくるつもりなのであるなぁ、などと妄想している私。でも顔もわからないし名前も知らないのに、どうやって返せって言うんだろうか。私は一連の事態がよく理解できないまま(おバカ言うなよ)ぼー、と立ちすくんでいた。そんなのんびり屋な私であるけれど、ひとつだけ確実にわかっていることがあった。

     まず、ここは初台の電網パークシティ。見上げれば『新宿電網免許センター』の看板。

     私は明日も必ずここに来なきゃいけない。

     そして整理券を持って列に並ぶ。

     仮免許をゲト。

     そしてカレを探す。どうにかして黄色いカッパを返す。

     以上?

     それだけ?

     ……もしかしたら、それだけじゃないかも。